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アングラ

1:ANTI SDGS:

2024/05/05 (Sun) 15:46:30

メディアでアングラというレッテルを貼られるのはそもそも当該の表現に隙や甘さがあるからだと僕は思っています。

唐については学生時代近くの区立図書館には彼の戯曲と書物のほとんだが置いてあり読んでみたのだが単なる暇つぶしにしかならなかったようです。友人が彼の赤テントを観て面白かったと言って僕は上野の不忍池のすぐ横での公演に誘われたのですが舞台近くの人達が演技者と思えるくらいもりあがったいただけで彼らの感動らしきものは僕には通じて来ませんでした。僕を連れ出した友人は以前同じ出し物を観た時は舞台近くで言葉の響きに酔ったようでしたが今回遠くからの席では伝わってくるものが無かったと言っていました。僕は彼が唐の書物を読んでいないことを知りズボンなどを紹介したのですが結局はそれも彼に訴えるところは無かったようです。

その後バブル時に僕は新宿伊勢丹地下の食料品売場で妻の買い物につきあっている彼をみかけたことがありますが誰も彼の存在には気が付かなかったようです。
横尾忠則が唐のポスターで参加していましたが結局のところ彼らは昭和のおどろおどろしい庶民文化の持つインパクトに引きずられていた姿を見せつけていただけでビジョンに欠けていたようです。

一方寺山修司については渋沢龍彦同様に書物の題名などに「恐怖の」という形容詞がついたものが多く実際読んでみるとどちらもちっとも恐怖を感じさせないもので呆れていたものです。田園に死すは名画座で観る機会がありそこでの短歌の扱いを面白いと思い自分でも作ってみたほどです。 他の映画についてはどうも中途半端な印象が強く「書を捨てよ}についてはエンディングがちょっと面白いとは思ったのですがあの表現の効果を体験できるのは日本のそれまでの家庭風景を知るひとだけのようであり「草迷宮」は当時からフェリーニを引き合いに出され僕自身最後の場面にしてもCMフィルムを彷彿させるような甘さがあると思いました。またフィルムの中で例えばCRIMSONのジャケを背景に撮りそれも後の別のショットでは違うジャケを使用するのが何か若者に媚びているようでもあり好感はもてませんでした。

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